堺筋 昭和13年(1938) 撮影:十代 生駒権七。平野町交差点から北を望む。左=沢の鶴ビル/右=三越(北浜)/奥=野村ビル。手前を走るのは市電1528号。国家総動員法が公布され、「大大阪」と呼ばれた時代が終わりに向かう年に撮られた一枚である。
G. IKOMA Archive 所蔵。台紙部分を除いてトリミングしたのみで、色調・回転などの画像加工は行っていない。撮影年・撮影者・撮影地点および建物の同定は所蔵者による。
堺筋を考える会 論考
2026年7月24日、副首都法が成立した。2037年には御堂筋が完成100周年を迎え、完全歩道化(フルモール化)の目標年次となる。二つの期限を前に、大阪ではふたたび「大大阪」の記憶が引き合いに出されている。本稿はまず、その語りを解体することから始める。
大大阪の人口日本一は、関東大震災による東京の一時的後退と市域編入という行政操作によって得られた数字であり、1932年に東京が同じ手法をより大きな規模で実行した瞬間に失われた。規模で定義された優位は、より大きな主体に必ず奪われる。継承に値するのは首位という結果ではなく、費用と受益を近接させ、専門知を市民に開き、住み心地を目的に置いた設計原理だけである。
そのうえで本稿は、御堂筋の歩行者空間化が堺筋を渋滞させるという主張を採らない。大阪市の実測検証でも査読論文でも、周辺交通量の増加は確認されていないからである。本稿が問題とするのはより静かな事実である。御堂筋の計画文書には、堺筋という固有名が一度も現れない。交通影響検証の測定項目にも堺筋は含まれていない。堺筋は「影響が小さいと確かめられた」のではなく、そもそも論点になっていない。
堺筋には路線を単位とした計画文書もガイドラインも交通調査も存在しない。「船場のまちなみ作法」には道修町編と三休橋筋編があるが、堺筋編はない。この制度的空白を埋めることが、本稿の提言の中心である。手順の型は既にある。三休橋筋が2004年から2014年にかけて歩んだ道筋がそれである。
筆者は、堺筋・平野町交差点に所在する生駒ビルヂングの代表であり、堺筋の沿道地権者である。本稿の提言が実現した場合、筆者は当事者として利益を受けうる立場にある。この点をあらかじめ明示したうえで論を進める。本稿が依拠する事実はすべて公開資料であり、出典は末尾に一括して示した。読者が筆者の立場を割り引いて評価できるよう、事実・引用・推測・提案を記述単位ごとに区分して表示している。
本稿には三つの目的がある。
構成は結論先出し型を採る。本稿は歴史叙述ではなく意思決定のための材料であり、読者が最初に必要とするのは「どこに賭けるか」だからである。加えて、大大阪の記述は情緒的な物語に流れやすく、結論を後置すると論証が郷愁に飲まれる。
推測大大阪期の大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれた。この比喩は栄光の証として引用されるが、原義のマンチェスターは煤煙・水質汚濁・スラム・児童労働の代名詞でもある。大大阪の人口急増は、産業集積と低質な借家供給、公衆衛生の危機と表裏だった。関一が市民病院・市営住宅・公設市場・社会事業に力を注いだのは、その裏面が深刻だったからにほかならない。
「良き時代」を前提に置いた瞬間、論は「あの頃に戻す」という復古の構文に固定される。復古は比較対象を過去に置くため、現在の制約条件を評価できない。
推測イヴァン・イリイチは近代産業社会そのものを批判した思想家である。大大阪は近代産業社会の日本における最も成功した実装例の一つだった。両者は原理的に敵対する。慎重にやらなければ、権威ある固有名詞を貼って自説を補強するだけの操作になる。
逃げを許さない問いはこうである──大大阪の何がconvivialで、何がindustrialだったのか。この切り分けを提示できないなら、イリイチを持ち出す資格はない。本稿は第4章でこれを行う。
推測前者は国家スケールの制度配置、後者は街区スケールの空間配分である。共通項があるとすれば「中心を一本立てるか、複数の軸に分けるか」という単軸集中/複軸分節の選択問題としてのみ。この抽象度で括らずに並べると、単なる話題の並置になる。本稿は両者を「軸の設計問題」として統一的に扱う。
事実大大阪は自生的な繁栄ではなく、外部の破局と国家の再編に規定された都市である。以下の年表は、通常「大阪の栄光史」として語られる出来事を、外圧の側から並べ直したものである。
| 年 | 外圧・国家の動き | 大阪の動き |
|---|---|---|
| 1923 | 関東大震災(9月)。東京市・横浜市が壊滅的被害 | 関一、第7代大阪市長に就任。東京・横浜から人口と企業が流入 |
| 1925 | 治安維持法・普通選挙法 | 4月、第二次市域拡張。東成郡・西成郡の全町村を編入し面積約181km²・人口211万4804人。東京市199万5567人を抜き国内最大に。10月、大阪都市協会設立。12月、月刊『大大阪』創刊 |
| 1926 | ─ | 御堂筋拡幅事業に着手(受益者負担金制度を活用) |
| 1927 | 金融恐慌 | 大阪市人口225万9000人。世界第6位の都市とされる |
| 1929 | 世界恐慌(10月) | 紡績・貿易を基盤とする大阪経済が直撃を受ける |
| 1930–31 | 金解禁と昭和恐慌。1931年、重要産業統制法・工業組合法 | 繊維中心の産業構造が最も脆弱な部分を露呈。カルテル化・統制の対象に |
| 1931–37 | 満州事変(1931.9)・日中戦争(1937)。円ブロック形成と軍需拡大 | 大阪経済は軍需で再び活性化し、重化学工業が進展する。ただし担い手は旧来の商人層ではなく、新たに流入した新興資本家層であり、両者の摩擦が市政の主導権争いを生む |
| 1932 | 10月、東京市が近隣5郡82町村を編入し35区「大東京市」成立 | 同日、大阪市も分区し15区へ。しかし人口首位を明け渡す。以後、東京市の人口は大阪市の約2倍に |
| 1933 | ─ | 日本初の公営地下鉄・御堂筋線(梅田〜心斎橋)開業 |
| 1935 | ─ | 関一、在職のまま死去 |
| 1937 | 日中戦争開始 | 御堂筋(幅員44m)完成 |
| 1938 | 国家総動員法公布 | 本稿の扉写真が撮られた年。大大阪期の実質的な終期にあたる |
| 1938–44 | 戦時統制 | 『大大阪』は1944年1月号(20巻1号)で終刊 |
| 1943 | 東京都制施行。首都機能の制度的一元化 | ─ |
推測年表から読み取れる構造は三段である。
事実大阪都市協会は1925年10月21日、関一の主導で設立された財団法人で、欧米先進国の大都市を範として市民による「愛市団体」を組織することを趣旨とした。同年12月に月刊誌『大大阪』を創刊し、道路交通・上下水道・衛生など都市建設の諸問題に関する調査報告と資料を掲載、関市長をはじめ都市専門家が寄稿した。同誌は1925年12月の1巻1号から1944年1月の20巻1号まで刊行された。
推測「大大阪主義」を対外的なスローガン(東京に対する優越の宣言)として読むか、対内的な自治の技術(市民が都市経営の知識を共有し当事者になるための装置)として読むかで、継承すべき遺産が正反対になる。
『大大阪』が上下水道・衛生・交通といった実務的主題を市民向けに継続的に扱った事実は、後者の性格を強く示唆する。専門知を市民の手に渡す媒体という設計は、イリイチが評価する「道具」の条件に近い。一方で「大大阪」という誌名自体は規模の誇示であり、前者の性格も同時に帯びている。この二重性が大大阪の本質である。
都市の誇りとするところは其面積の広狭や戸口の多少ではない。市民の福祉を増進すべき施設を整へ、一国文化の進展と経済の振興とに対し最高の機能を発揮するにある。 関一の言葉として広く引用される一節。本稿では二次資料経由の引用であり、原典の書誌は未確認である。
推測この一節が正しく伝えられているなら、大大阪の設計者自身が規模主義を否定していたことになる。「大大阪」を規模の物語として語り継いできたのは後世であって、関一ではない。ここに再定義の正当な根拠がある。
事実長﨑励朗『大大阪という神話 ── 東京への対抗とローカリティの喪失』中公新書2885、中央公論新社、2025年12月23日初版、232ページ、ISBN 978-4-12-102885-3。著者は1983年大阪府生まれ、京都大学大学院教育学研究科博士課程修了、博士(教育学)、桃山学院大学社会学部准教授。
一九二〇年代から三〇年代、大阪市は「大大阪」と呼ばれ、人口で東京を抜き、日本最大の都市として存在感を際立たせていた。しかし、大大阪は、中央の東京に対抗することで、むしろ独自性を喪失していく――。本書は、大衆社会におけるラジオ、吉本興業、職業野球、宝塚歌劇など多様な切り口を通じて、その軌跡を追う。「大阪らしさ」の源流を描き出しながら、現在まで続く日本社会の均質性の問題を照らす試み。 中央公論新社 公式サイト 内容紹介より
関東大震災後、大阪市は東京市の人口を一時的に上回り、「大大阪」と呼ばれた。もともと中小の軽工業が多い都市だったが、満州事変や日中戦争は大阪経済をさらに活性化し、重化学工業が進展した。だが、そのことは旧来の大阪商人層と新興勢力との摩擦をもたらした。新たに大阪市に流入した新興資本家層は、旧来の商人たちが牛耳っていた大阪市政に手を突っ込み、覇権の奪取を目論んだ…… 福間良明(歴史社会学者・京都大学教授)による書評「均質化招く都市覇権争い」読売新聞 2026年3月(公開されている冒頭部分)
推測以下は、出版社公式サイトで確認できる目次・章題・内容紹介と、上記書評に基づく読解である。筆者は本書を通読しておらず、各章の詳細な論証は未確認である。したがって「本書の主張」ではなく「本書の構成から読み取れる論点を、本稿の文脈に接続したもの」として扱う。
推測第1章の副題は「『既得権益打破』が生んだもの」、その第3節は「日本放送協会へ ── そして官僚支配だけが残った」である。章題そのものが結論を述べている。大阪放送局の主導権をめぐって新興実業家が旧来の既得権益層に挑み、その闘争の帰結として、地域の主導権はどちらの側にも残らず、日本放送協会という全国組織=中央官僚の統制に吸収された。
「既得権益の打破」を掲げる改革が、既得権益者を退場させることには成功しながら、空いた席に地域の自律ではなく中央の統制を招き入れる──この構造は、大阪の都市改革論に一世紀にわたって反復されてきたパターンとして読める。副首都法をめぐる議論(第5章)は、この前例に照らして評価されなければならない。
推測第2章「ラジオが夢見た国民文化 ── 均質な言語空間の創造」、第1節「声の中央集権化」。ローカリティの喪失は、東京から一方的に押し付けられたのではない。大阪の放送局自身が「国民文化」という全国的な理想を追求したことが、均質化の推進力になったと読める。大大阪は被害者ではなく共犯者だった。「東京にやられた」という物語は、この共犯性を隠蔽する。
推測第3章の副題は「『大衆』の発見と『大阪』の没落」、第2節は「漫才は『大阪人』のためにあらず」。吉本興業が生み出した「大阪的」なものは、大阪の住民のためではなく、全国の「大衆」という新しい市場に向けて作られた商品だったと読める。「大阪らしさ」は輸出用のブランドとして成立し、その成功と引き換えに、大阪の内側の固有性は「没落」した。
本稿の文脈に置き換えれば、こうなる。現在流通している「大大阪ノスタルジー」もまた、外向けの都市ブランドとして再パッケージされた商品である。レトロ建築のライトアップ、モダン都市大阪の展覧会、御堂筋のイルミネーション。これらは大阪の外に向けて自己像を売るための装置であって、大阪の内側の自律を回復するものではない。大大阪の礼賛それ自体が、長﨑の言うローカリティ喪失の最新形態でありうる。本稿が「持ち上げすぎる風潮」に警鐘を鳴らす最大の理由はここにある。
この批判は筆者自身にも向かう。筆者は近代建築の保存活用に携わる者であり、本稿の扉に昭和13年の写真を掲げている。歴史的資源の提示が、いつ「外向けの商品」に転化するかの境目には、自覚的でなければならない。境目は、その提示が地域の内側の決定権を増やすかどうかにある。
推測終章の題は「文化的であること、放置すること」である。章題のみからの読解であることを断ったうえで言えば、文化は振興策や計画によってではなく、むしろ介入を控えること(放置)によって成立するという含意が読み取れる。
これはイリイチの道具論と正面から響き合う。制度が目的を独占し、専門家が生活を管理しはじめた瞬間に、人は自律を失う。「放置する」とは、無関心のことではなく、制度が空間を占領しないよう意図的に余白を残す設計行為である。
| 長﨑励朗 | イヴァン・イリイチ | |
|---|---|---|
| 批判の対象 | 中央(東京)への対抗によって独自性を失う地方の運動 | 規模と効率が閾値を超え、人間を従属させる産業的制度 |
| 失われるもの | ローカリティ(地域の固有性) | コンヴィヴィアリティ(道具を使いこなす自律) |
| 機構 | 覇権争いが均質化を招く。既得権益打破が官僚支配を残す | 根源的独占。特定の手段が代替手段そのものを消去する |
| 処方 | 放置すること(終章題より) | 第二の分水嶺を越えないよう道具の規模を意識的に制限する |
敵を基準にして自己を定義した瞬間に、自律は失われる。長﨑においては「東京に勝つ」ことを目標に据えた大阪が、その過程で東京と同じものになっていった。イリイチにおいては「より速く、より大きく」を目標に据えた社会が、その過程で人間の自律的能力を制度に明け渡していった。両者はいずれも、勝敗ではなく基準の設定こそが決定的だと述べている。
この一点が本稿の全論証を支える。副首都論も堺筋論も、「東京と比べてどうか」「御堂筋と比べてどうか」という問いを立てた時点で、すでに敗けている。
事実本稿が用いるイヴァン・イリイチの概念は以下の四つである。
| 概念 | 出典 | 定義 |
|---|---|---|
| コンヴィヴィアリティ (自立共生) | 『コンヴィヴィアリティのための道具』1973 | 人間が道具に隷属せず、道具を自律的に使いこなし、相互に依存しあいながら自由を保つ状態 |
| 二つの分水嶺 | 同上 | 第一の分水嶺=道具が人間に奉仕する段階。第二の分水嶺=道具の規模と効率が閾値を超え、人間が道具に奉仕させられる段階への転落 |
| 根源的独占 | 同上 | 特定の商品・サービスが、代替手段そのものを社会から消去してしまう独占。自動車が歩行を不可能にする類の独占 |
| 速度と公正 | 『エネルギーと公正』1974 | 移動速度が一定の閾値(イリイチは概ね時速15マイル=約24km/hを挙げる)を超えると、交通は時間を節約せず消費させ、社会的不平等を拡大する |
| 要素 | 判定 | 理由 | 継承可否 |
|---|---|---|---|
| 受益者負担金制度 | 良 | 費用の負担者と受益者を空間的に近接させる。誰が払い誰が得るかが見える。都市改造のコストが匿名の国家財政に外部化されるのを防ぐ | 最優先で継承 |
| 『大大阪』誌による 専門知の公開 | 良 | 上下水道・衛生・交通という実務を市民向けに継続的に扱った。専門家の独占を崩し、市民を都市経営の当事者にする装置 | 継承 |
| 「住み心地よき都市」 という目的設定 | 良 | 規模ではなく生活の質を評価軸に据える。関一自身が規模主義を明確に否定していた | 継承 |
| 市営住宅・公設市場・ 市民病院 | 良 | 生活の再生産を支える低単価インフラ。産業集積の裏面への直接的応答 | 継承 |
| 船場の中小ビル群と 借家の可変性 | 良 | 所有と用途が分散し、多数の主体が個別に決定できる。都市が可変であるための条件 | 最優先で継承 |
| 市域拡張による 人口指標の追求 | 否 | 規模の自己目的化。編入という行政操作で得た数字であり、1932年に東京が同手法をより大規模に実行して消滅した | 継承しない |
| 幅員44mの幹線 としての御堂筋 | 否 | 自動車速度域を前提とした空間規格。第二の分水嶺を越え、他の移動様式を駆逐する根源的独占を生んだ | 設計思想は 継承しない |
| 「東洋のマンチェスター」 という自己像 | 否 | 産業効率で都市を定義する。公害・長時間労働・借家スラムを不可避の代償として正当化する | 継承しない |
| ラジオを通じた 「国民文化」の追求 | 否 | 声の中央集権化に大阪自身が加担した。均質化の被害者ではなく共犯者だった(長﨑・第2章) | 継承しない |
| 全国市場向けの 「大阪らしさ」の生産 | 否 | 「大阪的」なものは大阪人のためではなく全国市場向けの商品だった。成功と引き換えに内側の固有性が失われた(長﨑・第3章) | 継承しない |
| 「既得権益打破」型 の改革レトリック | 否 | 既得権益者の排除には成功しても、空いた席に地域の自律ではなく中央の統制が入る(長﨑・第1章) | 警戒対象 |
| 東京との規模比較に よる自己定義 | 否 | 敵を基準にした瞬間に自律を失う。1932年の敗北と現在の副首都指定競争は同じ構造 | 最優先で棄却 |
推測この表から読み取れる規則性は明快である。「良」に分類された要素はすべて費用・知識・決定権を分散させる仕組みであり、「否」に分類された要素はすべて単一の指標・単一の軸・単一の中心へ集約する仕組みである。大大阪は分散と集約という相反する二つの原理を同時に走らせた都市であり、集約の側が勝った結果として神話だけが残った。
大大阪とは、「規模で東京を抜いた時代」ではなく、「都市を市民のための道具として設計しうるという確信が制度化された、日本で唯一のまとまった期間」である。その確信は1932年の規模競争の敗北と、1938年以降の戦時統制によって二重に断ち切られた。手続きはconvivialで、成果物はindustrialだった──これが大大阪の最も正確な要約である。
事実2026年7月24日、参議院本会議で「国家社会機能継続性確保施策及び副首都の整備に係る施策の推進に関する法律」(副首都法)が賛成123票・反対121票で可決・成立した。骨子は次のとおり。
推測盲点①:法の定義が「代替」である限り、副首都は首都の従属変数である。バックアップは本体が停止して初めて価値を発揮する。平時における存在理由は「東京一極集中の是正」という副次目的に依存するが、それを実行する主体は東京にある中央政府である。東京の集中を東京が是正するという構造は、大大阪が「東京に対抗すること」で東京を基準にしてしまったのと同型である。
盲点②:これは根源的独占の強化になりうる。「東京が止まったときのために大阪を整える」という論理は、平時における東京の独占を前提として正当化する。代替手段の存在が本体の独占を追認する構図である。真に一極集中を是正するなら、必要なのは「東京の予備」ではなく「東京を必要としない機能の束」である。
盲点③:指定競争は1932年の再演になりうる。指定要件が「規模・拠点性・開発実績」で設計されれば、大阪は名古屋・福岡と規模で競うことになる。規模で定義された優位は、より大きな主体または国の裁量に必ず奪われる。
盲点④:「既得権益打破」の帰結は1920年代に前例がある。大阪放送局をめぐる新旧実業家の抗争は、既得権益層の排除には成功しながら、主導権は地域に残らず中央の官僚統制へ吸収された。副首都法が「国の機関や特殊法人の拠点整備」を柱とする以上、大阪に来るのは自律的な決定権ではなく、中央省庁の出先機能である可能性が高い。拠点が増えることと自治が増えることは別である。
盲点⑤:2票差。賛成123対反対121という成立過程は、この枠組みが政権構成の変化に対して極めて脆弱であることを意味する。法律が通ったことを成果と見なすのは早い。勝負は施行後1年以内に定められる基本方針の文言にある。
| モデル | 定義 | 強み | 弱み・危険性 | 適用条件 |
|---|---|---|---|---|
| A. 代替型 (現行法の建て付け) | 東京の中枢機能停止時のバックアップ。省庁・特殊法人の拠点整備、通信・電力・物流の冗長化 | 法的根拠と予算措置が既に存在。短期に着手可能。危機管理として反対しにくい | 平時に空洞化する。東京の独占を追認する。指定が政治的裁量に左右される。拠点は来ても決定権は来ない | 3〜5年の短期 |
| B. 分節型 | 首都機能を機能単位に分解し、複数都市へ恒常的に配置。大阪は特定機能に特化 | 平時から実体が動く。他都市と競合せず分担できる。実績が指定要件を後追いで作る | 調整コストが高い。中途半端だとどの機能も根付かない | 5〜10年の中期 |
| C. 自律型 | 東京との比較を評価軸から外す。住民の生活の質・自律性・可処分時間を指標に据える | 他都市との規模競争に巻き込まれない。指標を自分で設計できる。人口減少局面と整合的 | 国の予算配分と結びつきにくい。政治的訴求力に乏しい | 10年以上の長期 |
提案A・B・Cは択一ではない。Aで制度と予算を取り、Bで実体を作り、Cで評価軸を守るという三層構造を推奨する。危険なのはAだけを追うこと──それは1932年の「相手の土俵で規模を競う」誤りと、1920年代の「既得権益打破が官僚統制を招く」誤りの、二重の反復になる。
実務上の焦点は一点である。施行後1年以内に策定される基本方針の指定要件に、「規模・開発実績」ではなく「実動能力」と「生活の質」の指標を書き込ませること。加えて、移転してくる機能について「拠点」なのか「決定権」なのかを一件ごとに明示させること。
事実大阪市は2019年3月に「御堂筋将来ビジョン」を策定し、御堂筋完成100周年の2037年をターゲットイヤーとして「人中心〜フルモール化(完全歩道化)」を長期目標に掲げている。短期目標は千日前通〜道頓堀川区間を2020年、中期目標は道頓堀川以北を2025年としていた。ファーストステップとして側道の歩行者空間化が進められ、幅員44mの断面は歩道13.5m+車道17m+歩道13.5mへ再編される。
事実大阪市建設局は令和4年10月4日から11月15日にかけて、長堀通(新橋交差点)〜道頓堀川(道頓堀川北詰交差点)で実際に側道を閉鎖し、交通影響を実測した。
| 検証項目 | 結果 |
|---|---|
| 新橋交差点 渋滞長 | 最大値で閉鎖前 平日150m → 閉鎖後 休日120m。概ね同程度 |
| 難波交差点 渋滞長 | 最大値で閉鎖前 平日80m → 閉鎖後 休日30m。減少傾向 |
| 新橋〜難波 所要時間 | 閉鎖前と比べて大きな変化なし |
| 東西道路の渋滞 | 閉鎖前と比べて改善傾向。大丸前交差点西方向は令和2年12月の休日120m → 令和4年10月の休日70m |
| 停車スペース | アクセススペースの容量は全体として確保され、本線への影響は概ねなし |
引用さらに、東京大学のグループによる査読論文が、差分の差分法(DID)による因果推論を行っている。
本研究では、大阪・御堂筋で進められている歩行者空間化計画を対象に、側道歩行者空間化が周辺の交通状況に及ぼした因果効果を差分の差分法(DID)によって定量的に評価した。その結果、側道歩行者空間化が周辺の交通量を増加させたという明確な事実は確認できず、場合によっては交通量減少に寄与する可能性があることを明らかにした。
中村耀三・植村洋史・パラディ ジアンカルロス・髙見淳史「御堂筋の側道歩行者空間化が周辺部の交通状況に及ぼした因果効果に関する研究」『都市計画論文集』60巻3号、2025年、抄録より
事実これらの結果の前提として、御堂筋の自動車交通量は約40年前に比べ約4〜5割減少し、一方で自転車交通量は約6〜7倍に増加している。分母そのものが半減している。
「御堂筋を歩行者空間化すれば、自動車交通が堺筋に押し寄せて渋滞する」──この主張は、現時点で公開されている実測データにも査読論文にも支持されていない。堺筋の沿道地権者である筆者にとって、この主張は自らの立場を守るうえで都合がよい。だからこそ、証拠に反する以上は明確に退けておく。
推測ただし、上記の結果を完全歩道化にそのまま外挿することはできない。四つの限定条件がある。
事実筆者は、公開されている御堂筋の計画文書について、本文テキストを取得して「堺筋」の語の出現を確認した。結果は次のとおりである。
| 資料 | 「堺筋」の語 | 周辺道路に関する記述 |
|---|---|---|
| 御堂筋将来ビジョン 〔概要版〕(2019.3) | 出現なし | 「大阪都市再生環状道路の構築により御堂筋に流入する通行交通を分散させる」「御堂筋周辺の幹線道路や御堂筋に接続する東西道路など、都心部全体のネットワークの再編を行う必要がある」「渋滞や荷捌きなど、御堂筋をはじめ周辺道路や地域に与える影響が大きい」──いずれも路線名の特定なし |
| 御堂筋の道路空間再編に ついて(案) | 出現なし | 北側区間について「現時点で側道を閉鎖した場合、本線に渋滞・交通影響」と記すが、対象は御堂筋本線 |
| 御堂筋側道閉鎖 交通影響検証結果(令和4年) | 位置図の地名表示のみ | 検証項目は御堂筋本線・区間内交差点・東西道路(新橋/鰻谷/大丸前/清水町/周防町/八幡町/道頓堀橋北詰)に限られ、堺筋そのものの交通量は測定対象に含まれていない |
堺筋は「影響が小さいと確かめられた」のではない。そもそも論点になっていない。
御堂筋の計画文書は、周辺道路への影響を認識しながら、それを「都心部全体の交通ネットワークの再編」という抽象度で扱い、2037年側の長期課題として後置している。個別路線の役割配分は、まだ誰の議題にも載っていない。
これは渋滞の問題ではない。議題の不在の問題である。そして議題の不在は、放置すれば既成事実によって埋められる。御堂筋が人中心の軸として完成し、堺筋が北行き5車線の一方通行のまま2037年を迎えたとき、両者の役割は誰も決定しないまま確定している。決定されなかったという事実が、決定になる。
事実堺筋の現況。1970年の大阪万博を機に双方向通行から北行き一方通行へ転換された(慢性的渋滞の緩和が目的)。天神橋1交差点〜日本橋3南交差点間は北行き一方通行で全5車線。東側の松屋町筋(南行き一方通行)と対をなす。車両だけでなく自転車も北行き一方通行である。
オフィス賃料(2025年第4四半期・Aグレード)は、本町・堺筋本町が月額約19,844円/坪。淀屋橋・北浜は約23,632円/坪、梅田は約29,469円/坪であり、堺筋は淀屋橋・北浜より約4,000円/坪、梅田より約9,600円/坪安い。
事実堺筋には、路線を単位とした計画文書もガイドラインも交通調査も存在しない。堺筋に関わる資料は二つの系統に分散している。
大阪市と船場地区HOPEゾーン協議会が策定したまちなみガイドライン「船場のまちなみ作法」は、基本編・建物編のほかに道修町編と三休橋筋編を備える。堺筋編はない。
推測この空白は、堺筋が重要でないことを意味しない。むしろ逆である。同じ「船場のまちなみ作法」は、船場の町割について「南北の『筋』── 近代に拡幅が進んだ御堂筋や堺筋、三休橋筋には、風格と趣のあるまちなみがつくられています」と明記している。堺筋の価値は認識されているが、路線として扱う枠組みがないまま今日に至っている。
推測堺筋が「二番目の筋」と見なされる理由は、そのまま自律軸としての条件でもある。
| 通常「弱み」とされる点 | convivialな資源としての読み替え |
|---|---|
| 賃料が御堂筋・梅田より安い | 失敗の許容度が高い。実験・小規模事業者・非営利用途が入れる。都市が可変であるための必須条件 |
| 大規模再開発が進んでいない | 中小ビル・近代建築のストックが残る=所有と用途が分散している。多数の主体が個別に決定できる |
| 一方通行5車線の過剰な車道 | 転用可能な余剰。削減の余地が最も大きい軸である。御堂筋のように「削って歩道にする」原資が既にある |
| 御堂筋ほどの象徴性がない | 象徴として消費されない。外向けの商品にされずに済む(第3章 補助線③の罠を回避できる) |
| 地下鉄堺筋線は御堂筋線より輸送量が小さい | 阪急線と相互直通し、京都方面への広域接続をもつ。都心を経由しない結節として単極構造の外にある |
提案役割分担の再設計。
ここで用いる「放置」は、長﨑の終章題の意味での放置(介入を控えて余白を残す設計)であって、単なる無策ではない。堺筋に必要なのは、速度と車線については積極的な介入、床の用途と賃料については意図的な不介入という組み合わせである。
事実三休橋筋は、船場の南北の「筋」が地域主導で再設計された唯一の完了事例である。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 2000年ごろ | 三休橋筋の魅力を発信してまちづくりを進める有志が集まりはじめる |
| 2004年3月 | 船場地区の6連合町会長が世話人となり「三休橋筋発展会」設立 |
| 2006〜2012年 | 大阪市によるプロムナード整備事業。無電柱化、歩道の拡幅、街路樹(センダン)の植樹 |
| 2014年 | 大阪ガス・堺屋太一氏らの尽力でガス灯55基を設置。デザインはプロダクトデザイナーで三休橋筋商業協同組合理事長の喜多俊之氏 |
| ─ | 大阪市の「船場のまちなみ作法」に三休橋筋編が単独で編纂される |
この過程は学術的にも記録されている。篠原祥・松本邦彦(大阪大学大学院工学研究科)「三休橋筋沿道の建物用途変化とまちづくり活動」が、整備と沿道建物用途の変化の関係を追跡している。
堺筋にこの型をそのまま当てはめれば、いま必要なのは工事でも規制でもガイドラインでもない。堺筋を単位とした地域の受け皿をつくることである。
提案第一段階(1〜2年)── 議題化と受け皿づくり
提案第二段階(3〜7年)── 既存制度の適用
提案第三段階(10年〜)── 軸の再設計
第三段階の検討を今から公式の議題に載せておかなければ、2037年の御堂筋完成時に「交通は堺筋へ」という既成事実が固定される。議題化それ自体が最初の一手であり、残された11年はそのために使うべき時間である。
大大阪から継承すべきものは「日本一だった」という記憶ではない。費用と受益を近接させ、専門知を市民に開き、住み心地を目的に置いた設計原理である。この原理を国家スケールに適用すれば、副首都は「東京の予備」ではなく「東京を必要としない機能の束」として定義し直される。街区スケールに適用すれば、堺筋は「二番目の御堂筋」ではなく「御堂筋とは異なる速度域を担う自律軸」として定義し直される。
逆に、規模と象徴で自己を定義し続けるなら──1932年10月1日に起きたこと(規模競争の敗北)と、1920年代の大阪放送局で起きたこと(改革の果ての官僚統制)が、指定要件をめぐる競争と、議題に載らないまま固定される堺筋という二つの形で、そのまま繰り返される。
推測以下は本稿に対して立てうる有力な反論であり、いずれも本稿は完全には反駁できていない。読者の判断に委ねる。
参考書
大大阪期
御堂筋(大阪市資料の多くはCC-BY4.0で提供されている)
堺筋・船場・三休橋筋
副首都法
※ 各出典の性格(一次資料/新聞報道/百科事典/個人サイト)は一様ではない。行政資料・学術論文・全国紙・出版社公式サイトを優先的に用い、個人サイトは事実の補足にのみ使用した。資料間で差異のある数値(1925年編入町村数の44/45など)は本文で幅を持たせて記述した。より詳細な資料目録は別掲の「論考資料 ── 御堂筋・堺筋 検討資料一覧」を参照されたい。