生駒ビル古写真
生駒ビル(古写真)

はじめに――断片から物語へ

本書は、大阪・高麗橋の時計宝飾商「生駒時計店」と、それを営んできた生駒家三百年の歩みを、現存する史料に基づいて辿る試みである。

手がかりは断片である。過去帳の戒名と没年、興信所が縁談のために作成した調査書、自社カタログの一行、丁稚の追想録、母が息子に書き残した一通の書状、そして数千枚の写真——。本書はこれらの断片を突き合わせ、確認できる事実と推測とを区別しながら、一つの物語としてつなぎ直す。

記述にあたっては、典拠や留保にかかわる注記を各章末の「注」にまとめ、本文は読み物として通読できるよう努めた。一次資料の一覧と信頼度評価、ならびに年表は巻末の付録に掲げる。

第一章 生駒家の源流

〇 「生駒」を名乗る前に

生駒家は平民の出である。十代権七は長男・一夫に「うちは平民の出である。士族ではない」と明言しており、本書はこの言葉を生駒家正史の立場とする。世上には源氏や大名家に連なるとする出自の説が語られたこともあるが、いずれも家の自己認識と相容れず、採用しない注1

明治以前、平民は原則として苗字を公称できず(一部「苗字御免」を除く)、屋号と通名で呼ばれた。生駒家も近世には「大坂屋」の屋号で通り、「生駒」を公式に名乗るのは明治以後のことである。姓は出身地の大和の国・生駒(現在の奈良県生駒市近辺)に由来する地名苗字と伝わるが(十代権七の言葉による)、いつの代から称したかを確定する史料は見つかっていない。

一 過去帳のなかの先祖たち――初代から六代まで

家の記憶を最も遠くまで遡らせてくれるのは過去帳である。初代とされる「権七」は宝永二年(1705)に没した。以後、二代・三代が「権七」の名を、四代から六代までが「権十郎」の名を継ぎながら、大坂で家業を営んだ。もっとも、この時期の家業・居住地・姓の使用実態には不明な点が多く、確認できるのは戒名と没年にほぼ限られる。初代から六代までの詳細な家業史を復元することは、現時点では難しい。

名前没年備考
初代権七1705年(宝永2)生年不明
二代権七1713年(正徳3)生年不明
三代権七1739年(元文4)生年不明
四代権十郎1765年(明和2)生年不明
五代権十郎1778年(安永7)生年不明
六代権十郎1815年(文化10)・62歳1754年生

そのなかで、六代の妻・里久(1775年生、天保十二年〔1841〕没・七十六歳)の記録は比較的整っている。記録が残るということは、それを残す余裕が家にあったということでもある。六代の時代には、家業が安定していたものと推察される。

二 七代権右衛門――幕末維新期の家督者

七代権右衛門は文化三年(1806)二月二十一日、六代権十郎の長男として生まれ、家督を相続した注2。妻やそ(文化九年〔1812〕生)を娶り、東区道修町五丁目百五番屋敷に住んだ。

七代の代に、生駒家の家業は刀装具商と袋物(煙草入)商として定まる。昭和二年付の「秘密報告書」注3には「先々代の戸主権右衛門氏の代に至りて刀剣商並に袋物商を営みしものなる」と記されており、ここでいう刀剣商は刀装具商を指すと解される。拵え・鍔・目貫、そして煙草入——いずれも武家や町人が身に帯びる上質の品であり、これを手がける金工・皮革の職人を抱えることが、生駒家の商いの実体であった。

しかし七代の晩年、その商いの土台が崩れ始める。幕末から明治維新へ、武家社会そのものが消えてゆく時代である。武家を主な顧客とする刀装具商の将来には、はっきりと陰りが見えていた。七代は明治十年(1877)一月二十九日、七十二歳で没する。家業の転換という宿題は、若い八代の手に委ねられた。

第一章 注
  1. 出自に関する俗説について。一部に語られてきた以下の説は、生駒家の自己認識と相容れず、本書は採用しない。①清和天皇(第56代)の末裔「源満仲の清和源氏」に連なるとする説。②四国の大名・生駒家(讃岐生駒氏)との同族関係を主張する説。③織田信長の側室・生駒吉乃との血縁を主張する説。④藤原北家(房前の流れ)を祖とし大和国生駒郡から尾張国丹羽郡に土着したとする説(1995年・十一代一夫が雑誌記事で紹介されたが、出典・誌名は未確認)。
  2. 七代当主の表記について。確認史料において七代当主は一貫して「権右衛門」と表記されており、「権七」と断定する史料根拠は現時点では確認されていない。初代から三代まで「権七」を代々名乗った記録があるため混同が生じやすいが、七代については「権右衛門」が正確な表記とみられる。(要継続調査)
  3. 「秘密報告書」について。昭和二年(1927)、興信所が縁談に際して作成した調査書。同時代の第三者による記録として、本書の家業・創業認定における最重要史料の一つである(付録「一次資料一覧」参照)。

第二章 創業――八代権七と時計・宝飾工芸商への転換

一 又七、十九歳の家督相続

八代権七は嘉永四年(1851)三月七日、七代権右衛門の三男として生まれた。幼名を又七という。三男であるから、本来は家督を継ぐ立場にはない。

運命を変えたのは、相次ぐ家の出来事であった。安政四年(1857)に父権右衛門が隠居し(七代は隠居後も明治十年〔1877〕まで存命)、戸主となっていた長兄・又兵衛(長男・徳三郎が改名したものとみられる注1)が明治二年(1869)三月に没する。又七はわずか十九歳で戸主を継ぐこととなった。明治五年(1872)四月、「権七」と改名し、専ら家業に従事する。若き当主の目は、家業のゆくえと時代の変化に鋭く向けられていた。

二 刀装具から時計へ――家業の大転換

生駒家は大阪市東区道修町五丁目に居を構え、二百年以上の昔より古道具を商い、質商を兼ね、貸家を持つ、町内有数の素封家として知られていた。屋号は「大阪屋」注2。七代の代に刀装具と袋物の商いとして定まったことは、前章に見たとおりである。のちの昭和四十六年(1971)の朝日新聞記事は、文化・文政のころ(一八〇四-三〇)に淀屋橋南詰東側で袋物やたばこ入れを商う「大阪屋」が開業し、明治初年に時計を売り出して、その後「大権堂」と改称した、と伝えている注4。道修町の古道具商として始まった家業が、文化・文政期までに袋物商へと業態を広げていった——その変遷の一場面を伝えるものと解される。

明治維新は、この家業の前提を覆した。文明開化の波、とりわけ明治九年(1876)の廃刀令(帯刀禁止)により、刀剣にかかわる商いは将来を失う。だが生駒家の対応は早かった。武家商いに見切りをつける判断はすでに隠居の身にあった七代の代から芽生えており、明治四年(1871)には時計の取り扱いを兼営している(人事興信録)。

この転換を引き継ぎ、断行したのが八代である。明治三年(1870)、輸入時計の流通が急速に拡大するのを見て、八代はこれを家業の中心に据えることを決した。そして明治五年(1872)、武家を主な顧客とする刀装具商から撤退する(秘密報告書)。

重要なのは、これが職人技術の断絶ではなかったことである。刀装具を手がけてきた金工職人たちは、キセル・帯留・簪といった身辺の小金物へ仕事を移し、明治中頃からは指環・ブローチ・ネックレス・ペンダント・タイピン・袖口釦(カフスリンクス)といった西洋ジュエリーの製造へと移行したとされる。その技はさらに、茶道具まわりの銀器・銀象嵌の器物へも展開し、漆器・硝子器・竹工芸といった各種工芸品の目利きと販売も家業に取り込まれていった。上質の品を扱い、職人技術を抱えるという家の一貫した性格こそが、武家社会という後ろ盾を失ってもなお、次の商いを生み出し続けた原動力である。

こうして店は、時計・貴金属・銀細工を核とする高級品商として発展する。取扱品目が工芸全般に及んだことは、のちの法人名が「生駒時計店」ではなく「生駒商店」とされたことにも映っている。この時代を通じて「大権堂」の号が用いられ、「時計指輪三人踊」を商標に、「正札付掛値なし」を商いの信条に掲げた。明治二十二年(1889)には東区高麗橋四丁目二十番地へ移転し、以後の本拠と定めた。

三 創業年はいつか――二つの起点

生駒時計店の「創業年」をめぐっては、会社自身が異なる起点を併存させてきた歴史がある。大正十二年(1923)のカタログは「ESTABLISHED 1866」と明記する。慶応二年を商業的起点とする自社認識である。一方、昭和五年以降の公式表記は明治三年(1870)を創業年としてきた。史料の記述は次のように分かれる。

出典主体内容
慶応2(1866)大正12年カタログ(七代)「ESTABLISHED 1866」。自社が掲げた起点
明治3(1870)秘密報告書/昭和5以降カタログ八代時計輸入への「着眼」。長年の公式表記
明治4(1871)人事興信録 第8版七代時計商を「兼営」
明治5(1872)秘密報告書八代旧家業を廃し時計商を「開始」(専業化)
明治10(1877)社内報1971八代輸入時計を「取扱い始めた」

この記述の幅は、矛盾というより、刀装具(武家向け)・袋物商から時計・宝飾・貴金属製品・工芸商への転換が、慶応末から明治初年にかけて段階的に進んだことの反映と読むべきである。本書は、社が長年公式に掲げてきた明治三年(1870)を創業年の基準としつつ、慶応二年(1866)を商業的起点とする自社認識もまた重要な事実として記録する注3

強調しておきたいのは、生駒家が明治三年以前から刀装具・袋物を商い、金工職人を抱えてきた家だという点である。創業年を一年単位で確定することよりも、この家業の連続性を正確に伝えることのほうが、史実に対して誠実である。

四 屋号と商号の変遷

生駒家・生駒時計店の名称のうち、法的に確定するのは登記された法人名のみである。それ以前の「大阪屋」「大権堂」「生駒時計店」「生駒商店」などの呼称はいずれも通称であり、時期を画然と区切って交代したのではなく、併存し、混用された。

その動かぬ傍証が、明治末に入店した丁稚の追想録に残る「生駒大権堂時計店」という呼称である。「大権堂」と「生駒時計店」が一つの名に融合しており、両名称が混在・併用されていたことを証明している。

登記商号の変遷は確定している。大正十二年(1923)の設立時の登記商号は「株式会社生駒商店」であり(八代権七の遺産二百万円を資本金として設立)、これを「株式会社生駒時計店」へ商号変更したのは昭和二十九年(1954)十月三十一日である。

名称種別性格典拠
大坂屋/大阪屋屋号(通称)生駒家の屋号。刀剣・袋物商時代からの呼称。近世は「大坂屋」、社内報(昭和46)は「大阪屋」表記社内報1971ほか
大坂屋権七屋号+当主通名(近世)「生駒」姓以前、近世の当主は屋号+通名で称したと伝わる〔伝聞・出典未確認〕伝聞
大権堂号(通称)時計貴金属商の号。明治期の木製看板が現存。商標「時計指輪三人踊」、信条「正札付掛値なし」明治期木製看板(現存)
生駒大権堂時計店通称(混成形)「大権堂」と「生駒時計店」が融合した呼称。両名称の併用・混在の証左丁稚追想録
生駒時計雑貨店通称(店名)八代当主期の紳士録・名鑑類に見える店名。雑貨を扱った店としての性格を示す「生駒時計雑貨店」記事
株式会社生駒商店登記商号(法人)大正12年(1923)設立時の登記名。八代の遺産200万円を資本金として設立秘密報告書・人事興信録1928
生駒時計店通称株式会社生駒商店の時代から用いてきた通称社の伝承・秘密報告書
株式会社生駒時計店(G. Ikoma, Ltd.)登記商号(法人)昭和29年(1954)10月31日の商号変更で登記、現在に至る10大ニュース1954

五 九代――林四郎とあさ、そして十代への継承

八代権七には多くの子があった。長女あさ(明治九年〔1876〕生)のもとへ、中村要助の四男・林四郎(明治二年〔1869〕生)が婿養子として入る。この夫妻が九代にあたる。

しかし林四郎は明治四十一年(1908)八月二十一日、四十歳の若さで没した。家督も社長職も継がぬままの早世である。以後、家の筋目を守ったのは妻あさであった。あさは創業者の長女として、また次代・十代権七(林之助)を育てた母として、昭和十八年(1943)六月二十四日に六十八歳で没するまで、生駒家を支え続けた。八代が「自分の憲法」と呼んだ一冊の書物を、直筆の書状とともに息子へ手渡したのも、このあさである(第三章に詳述)。

大正十一年(1922)、八代権七が没する。翌十二年、孫の十代権七が遺産二百万円を資本金として「株式会社生駒商店」を設立し、家業は法人として近代の枠組みに入った(第七章参照)。

第二章 注
  1. 徳三郎と又兵衛の同一性について。本文では長男・徳三郎が成人後「又兵衛」と改名したとみているが、この同一性の確認は戸籍・過去帳・家系図との照合を必要とする。現時点では幼名→改名の蓋然性が高いと判断しているが、史料的な確定には至っていない。(照合継続中)
  2. 「大坂屋」と「大阪屋」の表記について。近世は「大坂屋」、社内報(昭和46年)は「大阪屋」と表記する。また「生駒」姓以前、近世の当主は屋号+通名(「大坂屋権七」など)で称したと伝わるが、これは伝聞であり出典は未確認である。
  3. 「ESTABLISHED 1866」の裏づけについて。この表記を裏づける慶応年間の同時代史料は現時点では確認されていない。ただし大正十二年(1923)時点の会社自身が「1866年起点」を明記した事実は、それ自体を史料として扱い、本書でも保持する。
  4. 朝日新聞記事の開業記述について。朝日新聞 昭和46年(1971)12月14日付(書誌の詳細は第五章注1)。記事の記す開業地(淀屋橋南詰東側)・時期(文化・文政)は、本書の「道修町にて二百年以上の古道具商」という伝承と文言上は一致しないが、長い家業の中での業態・商い場所の変遷の異なる局面を伝えるものとして、本書は両者を併記する。

第三章 家職要道――八代権七が「自分の憲法」と呼んだ一冊

一 正司碩渓と『家職要道』

『勧善示蒙 家職要道』(かんぜんじもう かしょくようどう)は、江戸後期から明治初期にかけて活躍した肥前(佐賀)の碩学・実業家、正司南鴃(なんげき、別号:碩渓)が著した職業道徳書である。商人・職人が家業を守り、他の利益のために働くことの大切さを、具体的な実例を交えて説く。著者版は全八巻、明治八年(1875)に大阪書林より刊行され、浮世絵師・松川半山の木版彩色挿絵を伴う。

著者・正司碩渓(寛政五年〔1793〕生、安政四年〔1857〕没・六十五歳)は、有田皿山の質屋の家に生まれた。父祖の業を継ぎながら、文政十一年(1828)の大火では家財を投じて窮民を救済する。天保年間には江戸へ遊学して佐藤一齋・安積艮斎・林述斎ら当代の碩学と交わり、帰途には大坂で大塩平八郎を訪ねて数ヶ月を過ごした。著作は『豹皮録』百巻をはじめ多数に及ぶ。

のちの話の伏線を、ここで一つ記しておく。日本人初のロータリアン・福島喜三次の父もまた正司碩渓に師事しており、喜三次はその薫陶を受けて育った。この繋がりがやがて、生駒家とロータリーをひとつの縁で結ぶことになる。

二 病床の一冊――八代権七との出会い

「家職要道」と生駒家の出会いについて、有田ロータリークラブが昭和41年(1966)に発刊した『ロータリアン 福島喜三次伝』(第六代会長・蒲原著)は次のように記している。

「家職要道」にまつわる美しい話がある。大阪の生駒時計店の祖・生駒権七翁30歳の時、病を得て床に臥し、日夜苦しんでいた時、ある友人が「家職要道」の書を持参し、一読を奨めた。翁病苦を忘れて読みふけり、発奮興起、病癒えて、その教訓を実践励行する事年あり、終に今日の生駒時計店の基礎を成し、家庭円満も益々栄えるに至った。

時期は明治十年代前半、八代権七三十歳前後のことと推算される注1。病臥中に友人注2から贈られたこの書が、若き当主の精神的な支柱となり、時計・宝飾工芸商としての生駒時計店の礎を築く原動力となった。

八代はこの恩を忘れなかった。約三十年後、著者の孫・正司敬次(西松浦郡有田町)に二度にわたって謝意を伝えている。まず碩渓没後五十年頃(明治四十年〔1907〕頃)、金若干と、由来を記した書状を添えた置き時計を贈った。さらに大正二年(1913)には、明治天皇の御聖徳を輯録した冊子二百部を正司家に贈り、金百円を添えて先生の祭奠の資に供した。この出来事は大正二年九月二十一日付の佐賀日日新聞に「光輝ある有鄰之碑」「未見の恩人に一百圓を贈る」の二つの見出しで報じられ、西松浦郡誌にも記録されている。碑名は「有鄰之碑」。碑文の末尾には、論語の一句「徳孤ならず、必ず郷あり」が刻まれている注3

三 吉之助への継承と再版

明治四十五年(1912)五月十五日、吉之助は八代権七の五女の婿養子として生駒家に入った。その夜、八代は吉之助を膝下に呼び寄せ、「家職要道」の原本を手渡す。吉之助は後にこう記している。

「去ぬる明治四十五年五月十五日、私が初めて生駒時計店の息子の一人になりましたる其夜、亡父権七が私を呼びつけ、『これが自分の憲法である、よく咀嚼せよ』と申して恭しく渡しましたのがこの原本でございました」(大正十五年版・舌代、大阪高麗橋四丁目 生駒吉之助 識)

八代みずから「自分の憲法」と呼んだ一冊を、吉之助は家業の精神的支柱として受け継いだ。大正十五年(1926)十一月二十六日、吉之助は著者遺族の許可を得て全巻を合本形式で復刻・再版し、自身の誕生日の内祝いとして、ロータリアンをはじめ知己縁者に広く配布した。発行者住所は大阪市東高麗橋四丁目八番地——生駒時計店の所在地である。

再版に際して、大阪ロータリークラブ会員・土屋元作は題言を寄せ、次のように記した。

「其実例を挙げて利他の自利に帰着することを教へたり、是即ちロータリーに先ちてロータリー主義を明言せるものと言ふべし」(大正十五年十月八日 土屋元作 識)

「家職要道」の精神がロータリーの理念と合致するという認識は、吉之助の行動に一貫している。のちに大阪ロータリーの十周年記念誌が「日本のロータリアンに『吉』あり」と称えた吉之助の外交力と人柄は、この書が説く「利他の精神」を体現したものとも言えよう(吉之助のロータリー活動と世界一周については第四章に詳述する)。

四 「毎年お正月に読む」――十代の書き込み

八代から吉之助に手渡された原本は、その後、九代・あさの手を経て、十代権七(林之助)へと受け継がれた。吉之助が再刊を果たした頃には、原本はあさのもとに戻っていたと考えられる〔推測〕。あさはこの原本に、直筆の書状と八代権七の肖像写真を添えて、長男・十代に残したのである(書状は現存)。書状の全文は次の通りである注4

「此書物は父権七(写真の主)の一身の元として、常に熟読せられ、わづかの資金を以て日夜勉励、平生より〔未解読〕、効果あらわれ、家族一統安楽な生活出来得る様にと励み、生駒家の信用あり、資産をこしらえてくださる〔未解読〕七十二歳にて死去せられる〔未解読〕大切な書物故〔未解読・吉之助が再刊した旨を記したものと推察〕又 箱を昭和六年 吉之助氏が新調して下さる」
長女 あさ 記す

書状にいう「写真の主」とは、添えられた八代権七の肖像写真を指す。「わづかの資金」から「日夜勉励」して七十二歳で没するまでに家業を興したのは家職要道の教えによるものだ、と、あさは息子に伝えた。昭和六年(1931)には吉之助が収める箱を新調しており、書物が世代を超えて大切に保管されてきたことがわかる。

受け取った十代は、巻末の見返しに「毎年お正月に読む」と自ら記し、読んだ年の年号を書き続けた。現存する書き込みは次の通りである。

昭和西暦備考
昭和13〜19年1938〜1944年戦時中も継続
昭和20年1945年記載なし(終戦の年)
昭和21〜25年1946〜1950年翌年再開
昭和27〜28年1952〜1953年計15回前後

注目すべきは昭和二十年(1945)である。戦時中も途切れなかった書き込みが、この年だけ抜け、翌二十一年から再開されている。敗戦という断絶を挟んでなお読み続けられた記録は、八代が「自分の憲法」と呼んだこの書が、いかに当主の正月の習いとして根づいていたかを物語る。

五 現代へ

十一代・一夫もこの書を繰り返し読み、著者・正司南鴃(碩渓)の故郷である佐賀県有田を訪ね、有鄰之碑と碩渓の墓に参じた注5。宮本又次先生の監修による現代語訳『商賈繁盛大鑑』を通じて、その内容は現代にも読み継がれている。十二代・伸夫の時代には、娘婿もまた宮本版を手に取っている。

原本(明治八年版)と吉之助版(大正十五年版)は、いずれも現在も生駒家に保管されている。幕末の職業道徳書でありながら、「利他の自利に帰着する」という普遍の原理を説いたがゆえに、この一冊は三代にわたる当主の手元に生き続けてきた。

第三章 注
  1. 時期の推算について。八代権七は嘉永四年(1851)生まれであり、三十歳は明治十三年(1880)前後にあたる(付録年表参照)。
  2. 「ある友人」について。この友人は大森嘉平である。本文引用の『福島喜三次伝』は「ある友人」とのみ記す(付録年表・明治十三年〔1880〕の項参照)。
  3. 確認済み史料(有鄰之碑・正司敬次関連)。以下の史料により確認済み。①西松浦郡誌(正司碩渓の項)、②佐賀日日新聞 大正2年(1913)9月21日付。確認内容:八代権七による二度の贈り物(置き時計・金若干、および明治天皇御聖徳冊子二百部・金百円)、孫・正司敬次の実在、青銅碑「有隣之碑」の実物(十一代・一夫の有田訪問写真でも確認)、碑の拓本の現存。碑文は漢文体で書かれ、大正3年(1914)1月付、揮毫・撰文は醇庵・鈴木券。碑文末尾は論語の一句「徳孤ならず、必ず郷あり」で結ばれている。
  4. 書状の未解読部分について。引用文中の〔 〕内は未解読箇所。〔推察〕とした部分は文脈による補完であり、原文の確定ではない。
  5. 十一代・一夫の有田訪問(現地確認記録)。佐賀県有田町訪問時の写真(昭和末期撮影)が現存。①正司家邸(有田町旧宅)前、②有鄰之碑(黒い円柱形の青銅碑)前、③正司南鴃の墓前——の三地点での撮影が確認されている。明治の新聞記事スキャン・碑の拓本については順次デジタルアーカイブへの追加を予定。

第四章 吉之助と大阪ロータリー――「キチオブオサカ」の物語

一 婿養子・吉之助

生駒吉之助は明治十九年(1886)十一月、福岡県に生まれた。早稲田大学を卒業後、大阪に出て、明治四十五年(1912)五月十五日、八代権七の五女・フデと結婚し、婿養子として生駒家に入る。入家のその夜、義父から『家職要道』の原本を手渡されたことは、前章に見たとおりである。

大正十一年(1922)に八代が没した後、吉之助はもう一人の婿養子・斎吉とともに、取締役として経営を実質的に支えた。家督を継いだのは孫の十代権七(林之助)であり、吉之助は生涯、当主の座には就いていない。しかし、この「当主ではない男」が、生駒時計店の名を世界に運ぶことになる。

二 大阪ロータリー入会

大正十四年(1925)、吉之助は大阪ロータリークラブに入会した。創立三年目、第三代会長・長谷川銈五郎、幹事は日本人初のロータリアン・福島喜三次という時代である。日本にロータリークラブはまだ五つ。名だたる実業家が並ぶなかで、吉之助は「いち商店の当主ですらなく、いわば番頭、一介の会員に過ぎ」なかった(伸夫談)。

翌大正十五年(1926)の家職要道再版が、土屋元作の題言「是即ちロータリーに先ちてロータリー主義を明言せるものと言ふべし」とともにクラブで迎えられたことは、前章のとおりである。家業の書とロータリーの理念が、ここで一つに重なった。

三 ろんどん丸――ダラスへの旅立ち

国際ロータリーは当時、各クラブからの代表参加を義務づけていたが、大阪クラブは1926年から三年間、他クラブの代表者に代理を頼む苦境にあった。そこに吉之助が奮起する。昭和四年(1929)、テキサス州ダラスで開かれる国際大会への直接参加が実現した。

昭和四年五月五日、吉之助は神戸・住吉駅を出発した。平生、星野、武田、コンヴァースの各氏が夫人同伴で見送り、大阪駅でも多くの会員に見送られた。五月七日、横浜港から大阪商船「ろんどん丸」に乗船。生まれて初めて日本を離れる旅であった。

四 特別列車と都々逸――「キチオブオサカ」の誕生

太平洋を渡ること七日余、経度百八十度を過ぎたところで船長がすき焼き晩餐会を催し、乗客一同で大いに盛り上がった。五月二十日にバンクーバーへ上陸、シアトルを経てサンフランシスコへ。同地のロータリークラブを訪問し、その夜のうちにダラス行き「ロータリー・スペシャル・トレイン」に乗り込んだ。ピアノまで積み込んだこの特別列車には、百五十名ほどのロータリアンが乗り合わせていた。

車中の余興で、吉之助は「何をくよくよ川端柳 水の流れを見て暮らす」と都々逸を歌いながら踊った。これが大評判となる。「破れるような喝采」の後も夜ごと催促され、吉之助自身「キチオブオサカは一躍150の親しい友ができました」と報告している。米山梅吉ガバナーも後の書簡に「同君なかなか気軽の方故、米国人の間に大もてにこれあり……誰が名付けしかKittyのあだ名にて通り、Kitty of Osakaと申すことに相成り」と記した。「キチオブオサカ」の誕生である。

五 ダラスの九千人

エルパソ、サンアントニオを観光しながら、五月二十六日午後、一行はダラス駅に着いた。数百の婦人令嬢が花を胸に挿して出迎え、「感極まって涙でした」と吉之助は書いている。投宿はアドルフス・ホテル。その夜、会場で国際ロータリー会長トム・サットン——半年前の太平洋ロータリー会議で来日した際に面識があった——と偶然再会し、固い握手を交わした。

五月二十七日の開会式では、日本の着物姿の女学生が日の丸を掲げて君が代を演奏する場面があり、「涙で眼鏡が濡れました」と報告している。翌二十八日には米山梅吉とともにステージに上がり、九千人の前に立った。ダラスを去る際には「ホテル受付に私宛の手紙、名刺が積んで数インチに及ぶ。しかも名刺の大部分は小型のものであった」と帰国後の例会で披露した(小型の名刺は当時の女性の名刺である)。

大阪ロータリー十周年記念誌は記している——「生駒吉君の如才なき外交手腕と相まって異常なる好結果を納め、日本のロータリアンに『吉』あり、との世評をロータリーワールドに高めた」。

六 シカゴの徽章、ロンドンの時計塔――世界一周

大会後、吉之助はニューオリンズ、シカゴ、デトロイト、ニューヨークの各クラブ例会に出席した。シカゴでは当時の国際ロータリー本部(Evening Post Bld.)を訪れ、ロータリー徽章の製造販売ライセンスを取得する。帰国後に生駒時計店が発行したロータリー・カタログは、ここに起源を持つ。このライセンスを得た生駒時計店はさらに、鋳造作家・中島保美に鐘を制作させ、大阪ロータリークラブに寄贈した。この鐘は以来九十年近く、例会で使用され続けている。

大西洋を渡り、ヨーロッパへ。ロンドンではJ.W.Benson社から、当時建設中の生駒ビルの時計塔を動かす機械・鐘、および標準時計となるホールクロックを買い付け、同社と代理店契約を締結した。ドイツではキンツレ(Kienzle)社など複数のメーカーとも代理店契約を結ぶ。その後ブリュッセル、パリ、ミュンヘン、シュトゥットガルト、南ドイツの湖畔、スイスと三ヶ月余をかけて巡り、シベリア鉄道でウラジオストックへ。そこから船に乗り、十一月十七日、神戸に着いた。五月の出発から半年を超える世界一周の旅であった。

吉之助は昭和十五年(1940)の戦争によるクラブ解散まで大阪ロータリーの会員として活動を続け、戦後に再入会、昭和二十九年(1954)に退会した。昭和三十八年(1963)没、享年七十六。『福島喜三次伝』は記している——「翁の養子吉之助はまたよく翁の遺志を継ぎ、益々今日の生駒時計店の大を成した人であるが、同時に大阪ロータリークラブの会員として、その発展に尽くした人である」(有田ロータリークラブ第6代会長・蒲原著)。

第五章 生駒ビル建設と戦前の全盛

〔この章は資料追加にあわせて執筆中。二は骨格メモ。〕

一 生駒ビルヂング竣工(昭和5年・1930年)

昭和5年(1930年)、生駒ビルヂングが竣工した。建設地は東区平野町——大正十五年(1926)に開設した堺筋出張店の地である(明治二十二年以来の本店は高麗橋四丁目)注1。大正の末から始まった御堂筋の建設で大阪の街が姿を変えるなか、堺筋に面した出張店の地に、新たなビルが建てられた。建設の動機について十二代・伸夫は、大正十二年(1923)の関東大震災を受けて「東京進出より、まず大阪にしっかりした建物を」と考えたのだろう、と推測している(伸夫談)。

設計は、肥後橋の近くに事務所を構えていた宗兵蔵の宗建築事務所注2、施工は大林組。宗は東大生時代の明治二十二年(1889)、皇居の二重橋を飾る銅器の懸賞デザインで賞金二十五円の一等を獲得した経歴を持つ、当時指折りの大家であった。建物は鉄筋五階・地下一階、外壁は茶色のレンガ。複雑な装飾を排して直線を強調する新しい様式を取り入れる半面、振子型の出窓や半獣神の窓飾りなど、クラシックな意匠も併せ持つ。時計塔には、吉之助がロンドンで買い付けた英国製の時計機械と鐘が据えられた(第四章参照)。「グアーン、ゴオーン」と鳴るその荘重な響きはウェストミンスター寺院の鐘と同じと伝えられ、塔の大時計は円タクの格好の目標であったという(朝日記事)。

竣工のとき、当主・十代権七はまだ三十歳そこそこの若い社長だった。商人仲間は「個人商店がビルを建てるとは、ムチャしよる」と、かげ口をたたいたという(朝日記事)。昭和10年代には生駒時計店の商業的全盛期を迎え、時計・貴金属・宝飾品・工芸品の百貨的品揃えで船場の高級品商として名声を確立した。〔資料追加予定:戦前カタログ・店舗写真〕

二 戦前カタログの世界

大正末から昭和初期にかけて生駒時計店が発行したカタログには、時計・指環・ブローチ・ネックレス・ペンダント・タイピン・カフスリンクスをはじめ、大阪ロータリークラブ向けの徽章・カップ・バッジ類など多彩な商品が掲載されている。これらのカタログは当時の品揃えと職人技術の水準を示す一次資料として価値が高い。〔資料追加予定:カタログ画像〕

第五章 注
  1. 朝日新聞記事について。朝日新聞(第2大阪版・17面)昭和46年(1971)12月14日付、連載「石とレンガと…――近代大阪の名建築――」(35)「生駒時計店」(見出し「出窓は"振子型"」)。本節の建物描写・時計塔・移転経緯・かげ口の逸話はこの記事による(翻刻テキスト現存)。なお同記事は昭和5年の建設を「現在の場所に新築移転」と記すが、所在地の東区平野町は大正十五年(1926)に開設した堺筋出張店の地であり、明治二十二年(1889)以来の本店は高麗橋四丁目である。記事の「移転」の表現は、この堺筋出張店の地への新築を指すものと解し、本書は本店と出張店を区別して記す。
  2. 設計者について。従来の記載では「設計・施工は大林組」としていたが、設計はあくまで宗兵蔵の宗建築事務所であり、大林組は施工を担った(朝日記事〔注1〕も設計を宗兵蔵と明記する)。なお同記事は当主を「九代目」と記すが、本書の代数(過去帳・歴代当主表による)では十代権七にあたる。

第六章 15年戦争と敗戦・資産損傷

〔この章は資料追加後に本文を執筆予定。以下は骨格メモ。〕

一 戦時下の変容

昭和6年(1931年)の満州事変以後、日本経済は戦時体制へ向かう。昭和12年(1937年)の日中戦争開始、昭和16年(1941年)の太平洋戦争突入により、奢侈品統制が強化され、生駒時計店の商いは急速に圧迫された。社員集合写真は昭和6年から昭和19年にかけて変化を記録している——洋装40名の賑わいから、国民服・軍服姿の20名へ。〔資料追加予定:社員集合写真〕

二 敗戦と資産損傷

昭和20年(1945年)の敗戦後、財閥解体・財産税・株式無効化などにより、多くの商家が資産の大半を失った。生駒商店もこの波を免れなかった。戦前に培った信用と資産がいかなる損傷を受けたか、その詳細については資料の調査確認を進める。〔資料追加予定〕

第七章 戦後・復興・十代と十一代の時代

一 十代権七(林之助)――戦中戦後を生きた当主

十代権七は明治三十一年(1898)に生まれた。幼名を林之助という。父・九代林四郎は明治四十一年(1908)に四十歳で早世していたため、大正十一年(1922)に祖父・八代権七が没すると、孫の林之助が家督を継ぎ、十代権七を襲名した。翌大正十二年(1923)、遺産二百万円を資本金として「株式会社生駒商店」を設立。生駒家の商いは「G.Ikoma, Ltd.」として法人格を持つ近代的な企業に生まれ変わった。

若くして当主となった十代を支えたのは、九代の妹に婿入りして八代の養子ともなっていた吉之助と斎吉である。両者は取締役として十代の経営を補佐した。とくに吉之助は経営実務と対外関係の中核を担い、大正十四年の大阪ロータリークラブ入会をはじめとする対外活動で生駒時計店の地位を高めた(第四章参照)。

十代の経営期を語る貴重な史料に、昭和六年(1931)から昭和十九年(1944)にわたる社員集合写真がある。昭和六年には約四十名の社員が洋装で整列し、繁盛ぶりを示している。だが昭和十六年(1941)には軍服・制服姿の社員が混じり始め、昭和十九年には全員が国民服・軍服姿となり、人員も約二十名に半減した。戦時統制の波が生駒時計店をも直撃した様子が、写真から如実に読み取れる。

敗戦後の十代が直面したのは、経済的混乱だけではなかった。長女の早逝という家族の悲しみとも向き合いながら、法人の再建と事業の継続に取り組んだ。一方で油絵を嗜み、昭和二十八年(1953)には大阪ロータリークラブへ入会、以後約二十五年間ロータリアンとしての活動を続けた。

晩年の十代の肉声が、一つだけ新聞に残っている。昭和四十六年(1971)、竣工から四十年を経た生駒ビルが朝日新聞の連載「石とレンガと…――近代大阪の名建築」に取り上げられたときのことである注2。かつてビル建設を「ムチャしよる」と陰口された青年社長は、まっ白になった頭をかきながら、記者にこう答えた——「建物が古うても自慢になりまへん。よう発展せんかったいうことですさかいに。恥ずかしゅうおます」。竣工から四十年、誇るどころか恥じてみせる。船場商人の含羞のにじむ受け答えである。

十代権七は妻・久子注1とともに長寿を全うし、昭和五十三年(1978)十二月三十日、八十一歳で没した。〔詳細は資料追加後に補完〕

二 十一代・一夫――高度成長期と記録者の眼

十一代・一夫は昭和三年(1928)生まれ。高度経済成長期の終わりに社業を本格的に担い、昭和三十九年(1964)に大阪ロータリークラブへ入会、平成十五年(2003)まで三十八年余にわたって会員として活動した。妻・紀美子(昭和八年〔1933〕生、平成二十四年〔2012〕没・七十九歳、加賀橋立・酒谷家出身)とともに生駒家を支えた。

一夫を特徴づけるのは、記録者としての筆まめさである。趣味は多岐にわたったが、特筆すべきは記録づくりへの情熱で、ワードプロセッサが普及する以前の昭和五十年(1975)頃から、和文タイプライターであらゆる記録を几帳面に作成し続けた。本書が辿る生駒家と社業の歴史も、この一夫の記録に基づくところが大きい。

昭和六十一年(1986)には大阪ロータリークラブ会員として、日本人初のロータリアン・福島喜三次を顕彰する有田ロータリークラブ二十五周年記念式典に出席した。あわせて『家職要道』の著者・正司南鴃の孫筋にあたる正司家を訪ね、有鄰之碑と碩渓の墓に参じている(第三章注5参照)。〔詳細は資料追加後に補完〕

第七章 注
  1. 十代妻・久子について。明治三十八年(1905)生、平成十一年(1999)没・九十五歳。船場塩町・前川良蔵(前川合名会社代表、前川善兵衛の一族)の三女。
  2. 朝日新聞記事について。朝日新聞(第2大阪版・17面)昭和46年(1971)12月14日付「石とレンガと…――近代大阪の名建築――」(35)。書誌・建物の記述は第五章注1参照。引用は紙面より翻刻。

第八章 現代へ――アーカイブとして次代へ

一 十二代・伸夫の時代

十二代・伸夫は昭和三十二年(1957)生まれ。十一代・一夫の長男・孝夫は国立大学で工学を学び、社業を継がずに異なる道を歩んだ。家業を継いだのは弟の伸夫である。伸夫は中学から関西学院に学び、兄が工学部に進んだのを受けて商学部へ進み、卒業した。高度成長が峠を越えた時代に生駒時計店の経営を担い、妻・真由美(昭和三十三年〔1958〕生)とともに現在に至る。

伸夫の代の課題のひとつが、生駒ビルヂングの活用である。昭和5年(1930年)の竣工から一世紀近く。ビルは登録有形文化財として保護される一方、時代とともにその使われ方を変えつつある。〔資料追加予定:ビルの用途変更・現代の事業〕

二 締め――家業の連続と次代への伝言

寛政五年(1793)生まれの正司碩渓が著した一冊の書物が、肥前の質屋の一室で書かれてから二百年余が経つ。その書物が大阪の時計商の若き当主の枕元に届き、一身の元となり、法人として受け継がれ、世界一周の旅の原動力ともなった。

「利他の自利に帰着する」とは、他者のために働くことが回り回って自らの繁栄になる——という意味である。生駒家が時代の断絶を越えるたびに、刀装具から時計へ、時計から宝飾工芸へ、商いの形が変わっても失わなかったものがある。上質の品を扱い、職人技術を大切にし、人と人のつながりを育む、という商いの性格である。それは計算から生まれたのではなく、家職要道が体現する商人道徳の自然な発露であったとも言える。

十二代・伸夫がこのアーカイブに取り組む理由は、懐古ではない。資料を整理し、事実を確かめ、記録を残すことは、次の世代が判断するための素材を積み上げることである。八代が「自分の憲法」と呼んだこの書が、吉之助へ、あさから十代へと手渡されたように、このアーカイブもまた次代への「手渡し」である。「徳孤ならず、必ず郷あり」——碩渓が有鄰之碑に刻ませた論語の一句は、百年を超えて生駒家の歩みに響き続けている。

付録 一次資料一覧

以下に、本書の記述において参照した主要一次資料を整理する。信頼度は「創業・商号の事実認定」に限った相対評価である。

史料年代性格・信頼度要点
秘密報告書昭和2(1927)興信所による縁談調査書。★★★★★七代=刀剣・袋物商。八代が明治5年に旧家業を廃し時計商を開始。高麗橋4丁目移転=明治22年。大正12年に株式会社設立。
10大ニュース昭和29(1954)社内記録。★★★商号変更「生駒商店→生駒時計店」を10/31として記載。
人事興信録 第8版昭和3(1928)公刊紳士録。★★★★「代々刀劒商を営み、明治四年曾祖父権右衛門に至り時計商を兼営」。
「生駒時計雑貨店」記事明治後期〜大正初紳士録・商工名鑑。★★★店名「生駒時計雑貨店」。「先代より夙に時計商を営む」と記す。
大正12年カタログ大正12(1923)自社カタログ。★★「ESTABLISHED 1866」。同時代の裏付けなし。
社内報「先代を語る」昭和46(1971)十一代一夫筆。★★屋号「大阪屋」、大権堂号、商標「時計指輪三人踊」。日付に誤り多数。
丁稚追想録明治末明治末入店者の回想。★★「生駒大権堂時計店」の呼称。通称の併存を示す傍証。
大権堂 木製看板明治期現存する実物。★★★★「大権堂」号の使用を裏づける物証。
歴代当主表・過去帳生没年の典拠。★★★★★各代の生没年。業歴の記述なし。

付録 生駒家年表

出来事
〜1705年(宝永2)初代権七没。家業の詳細は不明
1806年(文化3)七代権右衛門生まれる
1851年(嘉永4)3月7日八代権七(幼名又七)生まれる
1866年(慶応2)頃自社カタログのESTABLISHED 1866が指す年。家業の商業的起点と自社が認識
1870年(明治3)八代、時計輸入開始を察知し時計商への転換を決意(公式創業年)
1871年(明治4)七代権右衛門の代、時計商を兼営(人事興信録による)
1872年(明治5)八代、刀剣・袋物商を廃業し時計商として専業化
1876年(明治9)帯刀禁止令施行
1877年(明治10)七代権右衛門没・七十二歳
1880年(明治13)八代・権七、病臥中に大森嘉平より家職要道を贈られ読む
1889年(明治22)高麗橋4丁目へ移転
1898年(明治31)十代権七(林之助)生まれる
1907年頃(明治40年頃)八代・権七、正司碩渓の孫・敬次に置き時計・金若干を贈る(碩渓没後五十年)
1908年(明治41)九代・林四郎没・四十歳
1913年(大正2)9月八代・権七、正司敬次に明治天皇御聖徳冊子二百部・金百円を贈る。佐賀日日新聞が「光輝ある有鄰之碑」「未見の恩人に一百圓を贈る」として報道(9月21日付)。正司敬次の返礼書状、9月28日消印で届く
1914年(大正3)1月「有鄰之碑」碑文が撰される(揮毫・撰文:醇庵 鈴木券)。碑文は漢文体、末尾は「徳孤ならず、必ず郷あり」(論語)
1922年(大正11)八代権七没・七十二歳
1923年(大正12)株式会社生駒商店として設立(資本金200万円)。十代権七社長就任
1928年(昭和3)十一代・一夫生まれる
1943年(昭和18)九代・あさ没・六十八歳
1954年(昭和29)10月31日、商号変更。株式会社「生駒時計店」となる(確定)
1957年(昭和32)十二代・伸夫生まれる
1978年(昭和53)十代権七没・八十一歳
1999年(平成11)十代妻・久子没・九十五歳
2012年(平成24)十一代妻・紀美子没・七十九歳
編纂:生駒伸夫(十二代) 本資料は個人による史料の集積であり、株式会社生駒時計店の公式見解を代表するものではありません。